富士スピードウェイの、ある秋の早朝のことだった。
霧が薄く流れるパドックに、IS Fが並んでいた。何台あっただろう。数えたわけではないが、おそらく百台に近い、レクサスのFモデルが、開けたばかりのコースを前に静かに整列していた。
エンジン始動の合図がかかった瞬間、空気が震えた。5.0LのV8が、コースの空気を低く撹拌していった。重低音とは少し違う、もっと品のある、しかし確実に内臓に届く音だった。
その光景を、僕はいまでも夜の運転中にふと思い出す。
電動化が進むこの時代に、5.0L V8の自然吸気を積んだセダンが、日本のメーカーから新車で出ることは、もうおそらく、ない。だからこそ、レクサスIS Fという車を、いまのうちに、ひとつずつ言葉で確かめておきたい。
そして同時に──「IS F」と「IS F SPORT」を、はっきり区別しておきたい。同じ”F”の文字が、まったく別の意味で売られている、という事実から、話を始めよう。
2007年の富士スピードウェイ、IS Fは世に出た

「F」は、富士スピードウェイ(Fuji Speedway)の頭文字だ。GAZOOの公式コラムでも、Fは「世界有数のサーキットトラックで鍛え上げられたモデルだけに与えられる特別な符号」と明記されている。
世界に冠を授けるサーキット出自の称号としては、稀有なほど直球で、シンプルな名前だ。ポルシェがニュルブルクリンクを参照しても「N」を車名に冠することはしない。フェラーリがフィオラノを愛していても「F」を商品名にすることはあるが、それは別の意味だ。レクサスは、自社のテストコースの名前を、そのまま車名にした。ある種の覚悟と、ある種の誇りが、その一文字に詰まっている。
2007年10月、IS Fはこの富士スピードウェイで世界初公開された。当時のISセダンをベースに、ボディ形状、エンジンルーム、駆動系のすべてに大幅な手が入った、レクサス史上はじめての”純粋なスポーツモデル”だった。同年12月、市販車として発売される。
あの発表会場のステージに、当時のメディアと開発陣が集まった写真が、いくつかの媒体にいまも残っている。レクサスというブランドが、長らく「上質」「静粛」「快適」という言葉で語られてきた歴史を、その朝、自ら更新しに行った。
2007年当時のレクサスは、まだ「日本のメルセデス」になろうとしていた時期だ。Sクラスや7シリーズを意識した重厚なセダンを送り出し、サーキットの匂いとは別の地平を歩いていた。その地平を、自社の手で書き換える。IS Fは、そういう決意を伴ったプロジェクトだった。発表の場が研究所でも、東京モーターショーの大舞台でもなく、富士スピードウェイのコースサイドだったこと。そこに、レクサスがこの先どこへ向かおうとしていたかの本心が、いちばん正直に出ている。
矢口幸彦という、ひとりの遊び心が起点だった

IS Fは、会社の事業計画から生まれた車ではない。
起点は、矢口幸彦という、ひとりのエンジニアの遊び心だった。TOYOTA GAZOO Racingに残るインタビューを含め、複数の媒体が伝えているところによれば、彼は2000年代初頭、「自分が本当に欲しいと思えるクルマを創りたい」と社内で密かにプロトタイプを組み始めた。
2004年、その試作車は形になり、レクサスの上層部に目をかけられる。そして、社内の正規プロジェクトとして公認される。
つまりIS Fは、合理ではなく情熱から生まれた車だ。コーポレートの計画ではなく、ひとりの「欲しい」が起点で、後から会社が追いかけて公式化した。それは、量産メーカーの中ではかなり珍しい経緯と言っていい。
矢口氏は後年、開発哲学についてこう語っている。
「求めたのは、レーシングドライバーがサーキットを走らせても、一般のドライバーが市街地で乗っても味わえる『運転の楽しさ』です」
「日常からサーキットまで、誰もがシームレスに走りを楽しめる」。この一文が、その後のFブランド──RC F、GS F、LC500、LFA──の中核に据えられていく。
個人の情熱から始まった一台が、後から続くシリーズの哲学そのものになる。そういう歴史を持つ車は、自動車の世界でも、そう多くはない。
2UR-GSE V8と8速SPDS──「スポーツ専用」を冠した瞬間

IS Fの心臓部は、2UR-GSE型5.0L V型8気筒だ。LS600hに積まれていた2UR-FSEを土台に、ヤマハ発動機と共同で「スポーツ専用」に仕立て直した、レクサス渾身のユニットだった。
最高出力423馬力、最大トルク51.5キログラムメートル。直噴とポート噴射を両立させたD-4S。エンジン型式末尾の「G」は、レクサス内部で「スポーツ志向」を示す印で、V8以上の排気量でこの記号が使われるのは、トヨタ系では2ZZ-GE以来のことだった。
数字だけ並べれば、現代の電動セダンの一部はこれを軽く超える。が、数値ではない部分にこそ、IS Fの本当の価値があった。
アクセルを撫でた瞬間、ボンネットの下から低く立ち上がる音。あれは、深夜のホテルのバーで遠くから聞こえてくる、低くて品のあるピアノの音に似ている。重低音ではない。けれど、確実に内臓に届く。スーツのシワを伸ばしながら、上質なグラスを傾けているような、緊張と弛緩が同居する瞬間の音だ。
アイドリングの状態では、振動は丁寧に抑え込まれている。乗り込んだ瞬間、これがスポーツセダンだとは気づきにくいほど穏やかだ。ところが、回転数を2000の少し上に持っていくと、低い咆哮が、背中側からじわじわとせり上がってくる。威圧ではない。招きに近い。「もう一段、踏み込んでもよい」と、車のほうから静かに合図が届く。その合図に応じるかどうかは、ドライバーに委ねられている。──運転を委ねるのではなく、運転の決断を委ねられている、というのが、IS Fの大人っぽさだ。
トランスミッションは8速ATのSPDS(Sport Direct Shift)。当時としては先鋭的な選択だった。トルクコンバーターを使いながらも、ダイレクト感のある変速を実現していた。webCGの試乗記を読み返すと、当時の評論家がこの8ATに込められた挑戦に驚いていた様子が、行間に残っている。
ステアリングとペダル、シフト、そして音。それらが噛み合った瞬間、車は単なる移動の道具ではなくなる。クルマと会話する、というあの感覚が、IS Fでは素直に成立する。それは、20年走ったロータリーやSR20でしか味わえない、と思っていた古い感覚に、別のアプローチでたどり着くということでもあった。
IS Fと「F SPORT」は別物──ここを混同しない

ここで、本記事のいちばん大事な切り分けに入る。
「レクサスIS F」と「レクサスIS F SPORT」は、まったく別物だ。
検索ユーザーの半分以上が、たぶん、ここを区別せずに調べはじめている。実際、都市部のレクサスディーラーに勤める中堅営業の知人はこう苦笑していた。「IS Fを買いたいと言われて来店されるお客様の半分は、現行ISのF SPORTのことだったりするんです。最初に、ここを丁寧に切り分けるのが、僕らの仕事です」と。
IS F──完成車として作り込まれた、本物のFモデル
IS F(USE20、2007-2014)は、完成車だ。エンジン(2UR-GSE)、駆動系、ボディ、シャシー、足回り、ブレーキ、エクステリア、インテリア。そのすべてが、Fモデル専用に開発・チューニングされている。生産期間は約7年で、すでに新車では手に入らない。
F SPORT──エッセンスを受け継ぐ装備グレード
一方、現行ISに用意されるF SPORTグレードは、装備パッケージだ。KINTO Factoryの解説を含め、複数の公式系媒体が整理しているとおり、F SPORTのエンジンは標準のIS300hやIS500などと同じ。専用装備は外装(スピンドルグリル、ブラックモール、専用ホイール)、内装(専用スポーツシート、メーター)、足回り(電子制御ダンパー、前後異サイズタイヤ、スタビライザー再チューニング)など。
同じ「F」でも、別の物語
つまり、IS Fは「完成形のスポーツセダン」で、F SPORTは「Fのエッセンスを継承した装備パッケージ」。同じFの文字が、まったく違う立ち位置に存在している。
これは、購入を考える人にとっては、最初に頭の中で整理しておかないと、後で確実に損する話だ。中古サイトで「レクサスIS F」と検索したとき、現行ISのF SPORTが混じって表示されることもある。価格帯も、装備内容も、走行性能の素性も違う。
Fモデル系譜──IS F、RC F、GS F、LC500、そしてLFA

IS Fは、その後のFモデル群の起点になった。
富士スピードウェイで開催されたあるFオーナーズイベントで、IS F、RC F、GS F、LC500、そしてLFAまでが一堂に並んだ朝の光景を見たことがある。総勢ほぼ百台。それぞれ立ち位置の違うFたちが、同じ場所に集まる。エンジン始動の瞬間、V8とV10の鼓動が、空気を別の色に染めていった。
IS Fは、ひとつのクルマではなく、ひとつの文化を起こした車だった。系譜を整理しておく。
LFA──Fの頂点、V10の伝説
LFA(2010-2012)は、Fの頂点に立つ存在として、限定500台で生産された。エンジンは4.8L V10の1LR-GUE。IS F/RC F系の2UR-GSEとは別物だが、いずれもヤマハ発動機が深く関わるレクサスのスポーツV型エンジンの系譜にある、と言える。
RC FとGS F──IS Fの直系
RC F(2014-現行)は2ドアクーペとして、IS Fの後継的な立ち位置で生まれた。GS F(2015-2020)は4ドアセダンとして、IS Fの精神を継ぐ存在だった。どちらも2UR-GSEを継続採用しており、IS Fのエンジン哲学はそのまま今に繋がっている。
LC500──同じV8、別の方向性
LC500は、同じ2UR-GSEを積みながら、F本流ではない位置に立つ。あれは「ラグジュアリーグランドツアラー」だ。同じエンジンでも、足回り、内装、車格のすべてが別の方向にチューニングされている。V8の音色は共通でも、行き先が違う。
こうして並べてみると、IS Fが種子だったことが、より鮮やかに分かる。あの一台が個人の遊び心から生まれていなければ、今のレクサスのスポーツラインナップは、おそらく、まったく違う形をしていた。
IS F中古の現実──いま、値を下げない理由

IS Fは、新車では手に入らない。だから話は、必然的に中古市場に向かう。
そして、その中古市場が、いま明確に動いている。ベストカーの記事では「レクサス IS Fの中古価格もついに高騰化」と、見出しで状況を端的に表現している。carview!の平均本体価格は約303万円、2007年式でも198万円から495万円のレンジ。状態と整備記録によっては、当時の新車価格(約766万〜800万円)に近づきつつある個体も存在する。
関西の知人で、コロナ前後にIS Fを中古で手に入れた30代の男性がいる。彼は当初、「実用的なセダンのつもりで買った」と話していた。けれど、初めてガレージのドアを開けて、V8が反響したあの朝から、「生活の温度が変わった」と笑う。長距離のドライブが、目的のあるドライブに変わったらしい。日常の移動が、別の意味を持ちはじめたのだ、と。
値段が下がらない車には、必ず理由がある。IS Fの場合、その理由は、たぶんひとつだ。代わりが、ないからだ。5.0LのV8を積んだプレミアムスポーツセダンを、いま新車で発注することは、世界を見回しても極めて限られた選択肢しかない。供給は止まり、需要は静かに残り続けている。価格は、その算式の結果として、自然にここに到達している。
これから探すなら、整備記録の有無、エンジンの2UR-GSEを扱える工場との接続、そして「乗り続ける覚悟」を持って向き合うべき車だ。安い個体には必ず理由がある、という鉄則は、IS Fでも例外ではない。
よくある質問
IS FとIS F SPORTの違いは?
IS Fは完成車(USE20、2007-2014、5.0L V8専用)。F SPORTは現行ISのスポーティ装備グレードで、エンジンは標準のIS300h/IS500などと共通。生産期間、エンジン、価格帯、駆動系の素性、すべてが違う。同じ「F」の文字でも、まったく別の意味で売られている、と理解しておきたい。
IS Fの中古はいま買いか?
相場は明らかに上昇トレンドにある。200万円台から500万円弱までのレンジで、状態と整備記録によって大きく振れる。乗りたい意志と予算が噛み合うなら、待つほど価格が上がる可能性は否定しづらい。ただし、状態を妥協して安く飛びつくのは、後で大きな整備費を呼ぶことが多い。
IS Fの維持費は?
5.0Lクラスの自動車税、街乗りで7〜8km/L程度の燃費、ハイオク指定。任意保険も大型セダン相当。エンジンの2UR-GSE自体は耐久性に定評があるが、定期メンテナンスを欠かさないことと、Fモデル系を扱える整備工場との関係を作っておくことが、長く乗る前提条件になる。
RC FとIS Fはどちらを選ぶべきか?
IS Fは4ドアセダン、RC Fは2ドアクーペ。家族や日常の使い勝手も含めて検討するならIS F、純粋にスポーツとして所有したいならRC F。エンジンは同じ2UR-GSE系統だが、車両のチューニング方向は別物だ。新車購入が選択肢に入るかどうかも、判断の分かれ目になる(IS Fは中古のみ、RC Fは新車もまだある)。
Fの「F」は何の頭文字?
富士スピードウェイ(Fuji Speedway)。レクサスが世界レベルのテストコースとして使い込んできた場所で、その名前を製品ラインナップに直接冠している。「Fの本流」と「F SPORT(エッセンス継承)」、そして「LFA(頂点)」の3階層を、レクサスは公式に整理している。
まとめ

あの富士の朝、百台近いV8とV10がコースの空気を震わせていた光景は、いまも僕の中で鳴り続けている。
電動化が進むこの時代の中で、レクサスIS Fという車をいま選ぶ意味は、たぶん「音」ではなく「姿勢」の問題なのだろう。一人のエンジニアの遊び心から生まれた一台に、自分の今日を重ねるかどうか。新車で出ない車に、中古というかたちで手を伸ばす覚悟があるかどうか。
──あなたのガレージは、その姿勢を、まだ受け入れる余白を残しているだろうか。決めるのは、もう、あなたとあなたの今日の心だけだ。
執筆:橘 譲二(たちばな・じょうじ)



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