その白いハッチバックを、僕は最初、軽く見ていた。
夜のショップの片隅。ライトを落とした工場の奥に、ぽつんと置かれた地味な3ドア。インテグラのように低く構えるでもなく、スカイラインのように威圧するでもない。チャンピオンシップホワイトの塗装だけが、やけに清潔に光っていた。「これがタイプR?」──正直、そう思った。
その夜、オーナーが助手席に僕を乗せた。市街地では本当に大人しい。拍子抜けするほど普通だった。だが、信号のない一本道で、彼がアクセルを床まで踏み、回転計の針が6000を、7000を超えた瞬間。澄ました優等生が、いきなり胸ぐらを掴んできた。
VTECに乗った高回転の咆哮。背中がシートに張り付く。耳の奥で何かが切り替わる。僕はその夜、自分の侮りを撤回した。EP3──英国生まれの、地味で速い、矛盾のかたまり。
地味な優等生が、8000回転で豹変した夜

EP3型シビックタイプR。2001年12月に登場した、2代目タイプRだ。
心臓はK20A型2.0L DOHC i-VTEC。最高出力は215馬力を、8000rpmという高い場所で発生する。最大トルク20.6kgmも、7000rpmまで引っ張ってようやく顔を出す。ホンダ公式のプレスインフォメーションに並ぶ数字を眺めるだけなら、現代の小排気量ターボのほうが速いだろう。
でも、この数字には罠がある。
EP3の車重は、わずか1190kg前後。今の同クラスからすれば、信じられないほど軽い。215馬力を、その軽さで割る。すると、カタログの数字からは想像できない加速の鋭さが立ち上がってくる。しかもこのエンジンは、低い回転では本当に何食わぬ顔をしている。穏やかで、燃費もそこそこで、近所への買い物にだって使える。
それが、ある回転を境に豹変するのだ。
峠仲間のひとりが、今もEP3に乗っている。学生の頃から走り続けている男だ。彼はこう言った。
普段はおとなしい優等生だよ。でも8000まで回すと、別人になる。あの瞬間のために乗ってるようなもんだ。
その言葉が、すべてを言い当てている。EP3は、回さなければ何も語らない。けれど回した者だけに、確かな返事をくれる。タコメーターの針が天井に向かって駆け上がるあの数秒間。僕らが若い頃に焦がれた、高回転NAの歓びが、ここにはまだ生きている。
この感覚は、馬力の数字をいくら眺めても伝わらない。低回転では穏やかに、ときに退屈なほど従順に振る舞い、ある一線を越えた途端に牙を剥く。その落差そのものが、EP3という一台の人格なのだ。普段は寡黙な男が、ふいに本音を漏らす瞬間。あの豹変に立ち会うために、人はわざわざ遠回りをし、わざわざシフトを一段落とす。効率では説明のつかない行為に、確かな意味があった時代の記憶が、このクルマには残っている。
今のクルマは、低い回転からトルクがどんと出る。速いし、扱いやすい。けれど、回す歓びは薄れた。エンジンを天井まで回し切って、初めてご褒美が待っている。そんな律儀な関係を、EP3はまだ僕らに差し出してくれる。
なぜEP3は不人気だったのか。英国生まれという出自

正直に書こう。EP3は、長いあいだ「不人気なタイプR」と言われ続けてきた。
初代EK9シビックタイプRは、いまや高騰している。後継のFD2やFK8も、中古市場で堂々たる値をつけている。その系譜のなかで、EP3だけが、どこか影が薄かった。理由は、欠点ではなく、出自にあったと僕は思っている。
ひとつは、生まれた場所だ。EP3は、日本のタイプRで唯一、英国スウィンドンの工場で生産された。欧州向けの3ドアハッチバックをベースに、英国で組み立てられ、日本へ「輸入」された一台。ホンダのニュースリリースにも、その経緯は記されている。国産信仰の強かった当時の走り屋文化のなかで、「英国製のシビック」という響きは、どこか他人行儀に聞こえたのだ。
DC5インテグラという、近すぎた兄弟
もうひとつの理由は、近すぎる兄弟がいたことだった。
同じ時期に、DC5インテグラタイプRがいた。エンジンは同じK20A系。プラットフォームも近い。そしてDC5は、誰の目にも「わかりやすくスポーティで、高性能」だった。低いノーズ、専用のクーペボディ、走り屋の語彙にぴたりとはまる佇まい。
対してEP3は、性能を声高に主張しない。むしろ、隠す。背の高いハッチバックのシルエットは実用的で、ひと目には速そうに見えない。WEB CARTOPの再検証記事も、この控えめさ──いわばアンダーステートメントの美学が、当時はマイナスに働いたと指摘している。
速さを、わかりやすく見せること。それだけが評価される空気のなかで、EP3は静かに損をしていた。でも、今ならわかる。あの控えめさは、欠点ではなく、ひとつの見識だったのだと。本物は、必ずしも自分から名乗らない。
思えば、初代EK9シビックタイプRは、軽量化とNAの研ぎ澄まし方で、走り屋の心を一気に掴んだ。だからこそ、EP3には最初から高いハードルがあった。先代の純粋さと、兄弟DC5のわかりやすさ。その二つに挟まれて、EP3は「どっちつかず」と見られてしまった。実用的な5ナンバーサイズのハッチに、サーキットを意識した本気のメカニズムを忍ばせる。その欲張りな思想が、当時はうまく伝わらなかったのだ。
けれど、時間は評価を変える。役割を終えて静かになったクルマほど、後になってその真価がわかることがある。派手な世代がひととおり高騰し尽くしたあと、人はようやく、地味な一台の中身に目を向け始める。EP3が再評価されているのは、流行が一周したからではない。中身が、ずっと変わらず良かったからだ。
215馬力とインパネシフト。スペックが語らない官能

EP3を語るとき、避けて通れない装備がある。インパネシフトだ。
多くのスポーツカーが、シフトレバーをセンターコンソールの低い位置に置く。ところがEP3は、標準車と共通の、ダッシュボードから生えるような高い位置にシフトを配した。発表当時、これは賛否を呼んだ。「走りのクルマなのに、なぜ走り屋的でない場所に?」と。
けれど、実際に乗ると印象が変わる。
シフトレバーが高い位置にあるということは、ステアリングから手が遠くならない、ということだ。握りを変えてから、ほんのわずかな動きでシフトに触れられる。ステアリングとシフトの距離が近い。まるで、心拍と呼吸が同じリズムを刻むように、手の動きが途切れない。あるオーナーズミーティングで、かつてインパネシフトを敬遠していた男が、こう漏らしていた。「慣れたら、もう手放せない。ステアリングから手が遠くならないんだ」と。
クロスレシオの6速MT。アルミのシフトノブ。トルク感応型のヘリカルLSD。コーナーの立ち上がりで、内側のタイヤが空転しそうになる、その一瞬手前で路面を掴み直す感触。これらは、215馬力という数字のどこにも書かれていない。スペック表は、官能を語らないのだ。
レカロとMOMOが包む、走るためのコックピット
ドアを開けて乗り込むと、地味な外観からは想像しにくい世界が待っている。
赤を基調とした内装。腰をすっぽり受け止めるレカロ製のフロントバケットシート。手に吸い付くMOMOの本革巻3本スポークステアリング。視界に入るものすべてが、「これは走るための道具だ」と静かに告げてくる。外では何も主張しないのに、運転席に座った瞬間だけ、本性を明かす。この二重性が、たまらなく粋なのだ。
K20Aというエンジンの素性についても、少し触れておきたい。このユニットは、DC5インテグラや、のちの4ドアFD2タイプRにも受け継がれていく、ホンダの2.0L i-VTECの礎だ。可変バルブタイミング・リフト機構が高回転側のカムに切り替わる、あの二段ロケットのような特性。それを量産タイプRで広く知らしめたのが、この世代だった。8000rpmという常用域の遥か上で最高出力を出す設計は、燃費や扱いやすさを優先する現代の流れとは真逆を向いている。だからこそ、今となっては得がたい体験になった。
中古相場の現実。最後に”買えた”タイプR

では、いまEP3を手に入れるとして、いくらかかるのか。
正直に言えば、かつての「お買い得」は、もう過去のものになりつつある。長いあいだ、EP3は歴代タイプRのなかで相場が落ち着いていた。EK9やFD2が手の届かない高みへ駆け上がっていくのを、横目で見ながら、ひとり地に足をつけていたクルマだった。だが、カーセンサーの相場記事も伝えるとおり、その出遅れていたEP3にも、いよいよ上昇の波が来ている。
馴染みの、旧車寄りのショップの店主が、先日こう言っていた。「インテR(DC5)は高くて手が出ない、って人が、最近EP3に流れてきてるんだよ」と。同じK20Aの咆哮を、まだ現実的な値段で味わえる。その事実に、多くの人が気づき始めている。
中古を選ぶときの僕の考えは、いつも同じだ。走行距離の数字に、おびえすぎないこと。10万kmを超えていても、整備の履歴がきちんと残り、丁寧に乗られてきた個体は、むしろ調子がいい。逆に、走行が少なくても、素性のわからない全塗装車や、雑なチューンの痕跡がある個体は避ける。
クルマには、前のオーナーの人柄が宿る。ペダルの戻り、ミッションの入り、エンジンの始動音。その一つひとつが、これまでの扱われ方を物語る。値段だけでは測れない縁が、あなたと一台を引き合わせることがある。
EP3を自分の色に。カスタムとエアロ、内装の楽しみ

EP3は、いじりがいのあるクルマだ。
ただし、僕がすすめたいのは、馬力をむやみに足す方向ではない。このクルマの一番の財産は、1190kgという軽さと、回して気持ちのいい高回転NAだ。だから、その素性を殺さないカスタムこそが似合う。
- 足まわり: 純正の素直さを土台に、減衰調整式の車高調で接地感を整える。固めすぎず、軽さを活かす。
- 吸排気: 抜けの良いマフラーとエアクリーナーで、8000rpmまでの伸びをさらに澄んだものにする。爆音ではなく、高回転で気持ちよく鳴る音を選ぶ。
- エアロ: 控えめな出自に合わせ、過度な張り出しより、ノーズやサイドを引き締める程度のさりげなさが粋だ。
- 内装: レカロとMOMOという良質な素地があるからこそ、ステアリングやシフトノブを自分の手に馴染むものへ。触れる場所から育てる。
カスタムとは、性能の数字を上げる作業ではない。クルマと手を通わせ、自分だけの一台を育てていく時間のことだ。EP3には、その旅にふさわしい素直さがある。
いま、EP3に乗るということ。維持の現実と歓び

EP3も、すでに二十年を超えた。デビューは2001年。もう立派な旧車の領域に足を踏み入れている。
だから、手に入れて終わり、というわけにはいかない。ゴム部品は確実に劣化する。電装系には、年式相応のトラブルが顔を出し始める。足まわりのブッシュ、クラッチ、各種センサー類。こうした部分に、定期的に手を入れていく覚悟は必要だ。幸い、シビックという素性ゆえに部品の供給や整備のしやすさは比較的恵まれているが、それでも「乗りっぱなしで永遠に走る」クルマではない。
けれど、僕はこの「手のかかる感じ」を、欠点だとは思っていない。むしろ、ここにこそ歓びがある。気になる音の正体を探して工具を握る休日。ジャッキで持ち上げて、オイルを抜きながら過ごす午後。探していた部品が手に入ったときの、小さなガッツポーズ。手間をかけた分だけ、クルマは確かに応えてくれる。
家族を持ち、実用車に乗り換えた友人たちが、ふとした拍子に「もう一度、回るエンジンに乗りたい」とこぼすことがある。立派にミニバンで子どもを送り迎えしている、いい父親だ。その選択は、何ひとつ間違っていない。ただ、心の奥でまだ燻っている火種まで、消してしまう必要はないと思う。EP3のような一台は、その火種に、そっと薪をくべてくれる。
派手ではない。速さを自慢もしない。それでも、回せば必ず応えてくれる律儀さがある。日常のなかに、自分のためだけの非日常を、そっと一台ぶん残しておく。そんな贅沢を、EP3は許してくれるクルマなのだ。
よくある質問

EP3はなぜ不人気だったのですか?
大きく3つの理由が重なった。英国スウィンドン生産の輸入車だったこと、シフトがインパネ配置という珍しい仕様だったこと、そして同じK20Aを積む兄弟・DC5インテグラタイプRのほうが「わかりやすく速い」と受け取られたこと。性能の問題ではなく、出自と立ち位置の問題だった。
EP3とDC5インテグラタイプRはどう違いますか?
エンジンは同じK20A系で、素性は近い。違いは性格だ。DC5は低く構えたクーペで、ひと目で速さがわかる。EP3は背の高いハッチバックで、速さを隠す。シフト位置もEP3はインパネ配置と独特だ。実用性と二面性を楽しむならEP3、わかりやすい速さならDC5、という選び方になる。
EP3は本当に速いのですか?
速い。ただし、回した者にだけ。215馬力を約1190kgで引き受けるパワーウェイトレシオは今でも侮れない。低回転は穏やかだが、6000rpmを超えてVTECに乗ると、別のクルマのように加速する。数字より体感が鋭い、典型的な高回転NAだ。
中古でEP3を買うときの注意点は?
走行距離の少なさより、整備履歴と素性を重視したい。過走行でも履歴が明確なら狙い目になる。逆に避けたいのは、素性不明の全塗装車や、配線処理が雑なチューン車。エンジンの始動音、ミッションの入り、足まわりの異音を確認し、丁寧に乗られてきた一台を選ぶことだ。
これからカスタムするなら何から?
まずは足まわりと吸排気のライトチューンをすすめたい。EP3の財産である軽さと高回転を殺さない方向だ。馬力を盛るより、接地感を整え、8000rpmまでの伸びを澄ませる。触れる場所であるステアリングやシフトノブを手に馴染ませるのも、満足度が高い。
まとめ

EP3は、自分から名乗らないクルマだった。
地味だと言われ、英国生まれだと敬遠され、兄弟の影に隠れて、長く正当な評価を受けてこなかった。でも、ひとたび8000回転まで回せば、優等生は豹変する。その豹変を知っている者だけが、静かに微笑んでいられる。
派手なものを選ぶのは、簡単だ。みんなが速いと言うものを選ぶのも、楽でいい。けれど、世間の評価がどうであれ、自分の耳と背中で確かめた歓びを信じて、地味な一台を選ぶ。派手じゃないものを、自分の意志で選べる。それはもう、立派な大人の贅沢だ。
あの夜、僕が侮った白いハッチの咆哮は、今も耳の奥で鳴っている。あなたは、最後に8000回転まで踏み込んだのは、いつだろうか。
執筆:橘 譲二(たちばな・じょうじ)



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