朝の通勤路で、その車を初めて意識したのは、信号が青に変わった瞬間だった。
前を走っていたのは、ごく地味なシルバーの5ドアハッチ。トヨタのエンブレム。一見、どこにでもある、ごく平凡な実用車だ。誰の記憶にも残らない、街の風景の一部のような一台。ところが青信号と同時に、その車はすっと小気味よく加速し、ドライバーの左手が、リズミカルにシフトレバーを送っていくのが見えた。
マニュアルだ。しかも、運転が、どこか楽しそうだった。
後ろから眺めていて、僕はなんだか嬉しくなってしまった。地味な背広の下に、走り屋の心臓を隠している。そんな車に見えたのだ。
オーリスRS。
トヨタが、欧州を主戦場に育てたCセグメントのハッチバック、オーリス。その2代目に設定された、走り仕様のグレードだ。
144馬力。今の感覚では、けっして速いとは言えない。「遅い」「地味」という言葉が、ずっとついて回ってきた車でもある。その評価も、わからなくはない。
でも、と僕は思うのだ。
速さや派手さだけで車を測ってしまうと、こういう「背広の下に本性を隠した一台」の良さは、永遠に見えてこない。
地味な顔に隠した本性──オーリスRSという二面性

オーリスRSの魅力は、その二面性にある。
外観は、驚くほど普通だ。派手なエアロも、これ見よがしの大きな羽根もない。スーパーの駐車場に停めても、誰も振り返らないだろう。だが、その普通の顔の下に、しっかりと走りのための素養が仕込まれている。
僕にとってオーリスRSは、「背広を着たまま、峠をさらりと流す元レーサー」のような存在だ。普段はネクタイを締めて、何食わぬ顔で通勤電車に乗っている。けれど、ひとたびその気になれば、誰よりも速く、誰よりも楽しそうに走ってみせる。そういう、抑制の効いた色気がある。
こういう車は、わかる人にしか、わからない。だからこそ、所有する喜びがある。すれ違ったときに「お、RSだ」と気づいてくれる、ほんの一握りの同志がいれば、それでいい。声高に自慢する必要のない、静かな満足。それが、この車との付き合い方だ。
そもそも「RS」という記号は、トヨタにとって特別な意味を持っている。古くはスポーツモデルに与えられてきた称号であり、ただの装飾ではない。オーリスというごく実用的な車にこの二文字が冠されたとき、そこには「実用車だって、走りを諦めなくていい」という、作り手のささやかな意地が込められていたように思う。
派手なスポーツカーは、所有しているだけで気持ちが昂る。それはそれで素晴らしい。だが、人生のある時期には、こういう控えめな一台のほうが、むしろ似合うこともある。家族がいて、仕事があって、それでも走る喜びを手放したくない。そんな大人にこそ、オーリスRSの二面性は、深く刺さるのだ。
馴染みの中古車屋の店主も、こんなことを言っていた。
「オーリスRSのMTを探しに来る人はね、たいてい、わかってる人なんだ。派手じゃないけど、本当に良い車だってことをね」
欧州で鍛えた骨格と、1.8 Valvematic──オーリスRSのスペック

オーリスという車を理解するには、その生い立ちを知る必要がある。
オーリスは、もともと欧州市場を強く意識して開発されたトヨタのCセグメント・ハッチバックだ。かの地では、フォルクスワーゲン・ゴルフをはじめとする手強いライバルがひしめいている。その中で戦うために、オーリスは欧州車的な、しっかりとした骨格と乗り味を与えられていた。
国内では地味な扱いだったかもしれない。だが中身は、欧州の速い流れの中で鍛えられた、本格派のハッチバックなのだ。
2ZR-FAE、Valvematicという心臓
RSが積むのは、1.8リッターの自然吸気エンジン「2ZR-FAE」。最高出力はおよそ144馬力、最大トルクは18.4kgmほどを発生する。
このエンジンの特徴が、トヨタの「Valvematic(バルブマチック)」という機構だ。吸気バルブの開く量を連続的に変えることで、低回転から高回転まで、効率よく、そして気持ちよく回るように仕立てられている。過給機こそ持たないが、自然吸気らしく、回せば回すほど表情が豊かになっていくエンジンだ。
低い回転域では、穏やかで扱いやすい。街中をのんびり流すぶんには、実用車そのものの顔をしている。ところが、回転を上げていくと、ふいに表情が変わる。中速から上で、エンジンが目を覚ましたように伸びていく。この「普段は猫をかぶり、回すと牙を見せる」二段構えが、Valvematicの面白さであり、RSという名にふさわしい性格でもある。
ターボのような、踏んだ瞬間に背中を蹴飛ばす過激さはない。だが、自分でエンジンを高い回転まで連れていき、その伸びを味わうという、自然吸気ならではの正攻法の楽しさが、このエンジンには宿っている。
6速MTを選べた、という贅沢
そして、忘れてはならないのが、このRSに6速マニュアルが用意されていたことだ。
当時すでに、実用的なCセグメントのハッチバックは、CVTが当たり前になっていた。そんな時代に、トヨタが「走りを楽しむ人のために」とMTを残してくれた。これは、地味だが、本当にありがたい選択だった。車重はおよそ1270キロ、パワーウェイトレシオは8.8ほど。数字は派手ではないが、自分の左手と左足で変速を操る楽しさは、この一点だけでRSを選ぶ価値がある。
「遅い」は本当か──数字と楽しさは、別物だ

オーリスRSを検索すると、「遅い」という言葉によく出会う。
正直に言おう。絶対的な速さで言えば、たしかにRSは速くない。ゼロヨンのタイムや最高速で誰かを黙らせる、そういう種類の車ではない。高速道路の合流や、急な登坂で、もう少しパワーが欲しいと感じる場面もあるだろう。
だが、ここで一度立ち止まって考えたい。
「速いこと」と「楽しいこと」は、本当に同じなのだろうか。
僕は、違うと思っている。
大パワーの車は、その性能のほとんどを、公道では持て余す。アクセルをほんの少し踏んだだけで、あっという間に法定速度を超えてしまう。結局、本当の力を出し切る場面など、サーキットの外にはほとんどない。
オーリスRSは、その逆だ。
144馬力という出力を、公道で気持ちよく使い切れる。エンジンを高回転まで回し、シフトを丁寧に操り、コーナーを抜けていく。その一連の操作を、危険な速度に達することなく、たっぷり味わえる。RSのMTで通勤しているという走り仲間が、こんなことを言っていた。
「速くはないよ。でもこの車のおかげで、毎朝の退屈な通勤路が、ちょっとした遊びになるんだ」
これこそが、RSの本質だ。
「遅い」という評価は、絶対速度の話にすぎない。操る楽しさという物差しで測れば、RSはまったく別の表情を見せる。
考えてみれば、僕らが免許を取りたての頃に乗っていた車だって、たいして速くはなかった。けれど、初めて自分の意思で車を動かしたあの感動は、馬力の数字とは無関係だった。クラッチをつなぎ、ギアを上げ、自分の手足で機械を操る。その原初的な喜びは、144馬力でも、500馬力でも、本質はまったく変わらない。
むしろ、パワーが控えめなぶん、ドライバーの操作の巧拙が、そのまま走りに表れる。丁寧にシフトを決め、エンジンの美味しい回転を保ち、コーナーへ滑らかに車を運ぶ。その一つひとつが上手くいったときの満足感は、大パワーで力任せに走るよりも、ずっと深い。RSは、ドライバーを育ててくれる車でもあるのだ。
Sパッケージという、ささやかな本気──装備とカスタム

オーリスRSには、「Sパッケージ」という装備の選択肢があった。
フォグランプや、ワイドタイヤと16インチのアルミホイールなどを備えた、見た目と走りを少しだけ引き締める仕様だ。派手さはないが、このワイドタイヤが、見た目の安定感と、コーナーでの接地感を、地味に、しかし確実に高めてくれる。
こういう「ささやかな本気」が、いかにもオーリスRSらしい。声高に主張せず、けれど必要なところには、ちゃんと手が入っている。その控えめな仕立てに、僕は好感を覚える。本物というのは、たいていこういう顔をしているものだ。全身を飾り立てるのではなく、効くところにだけ、静かに芯を通している。
カスタムを楽しむ余地も、もちろんある。
マフラーを替えて1.8の音に表情を与えたり、足回りを引き締めたり、ホイールで雰囲気を変えたり。素のシャシーがしっかりしているぶん、手を入れた成果も素直に体に返ってくる。ただ、RS乗りの多くは、過激にいじるよりも、純正の良さを生かしながら少しずつ仕上げていく、控えめな付き合い方を好むようだ。それもまた、この車の人柄に合っている。
中古相場・燃費という、現実の話

ロマンだけでは、車庫は埋まらない。現実の話もしておこう。
オーリスRSの最大の魅力のひとつは、その手頃さだ。
中古市場では、状態の手頃な個体なら50万円ほどから見つかる。後期型でも60万円台から、状態の良い一台を狙っても100万円台で手が届く。MTで楽しめる本格派のハッチバックが、この価格で手に入る。これは、なかなか他にない魅力だ。
燃費も、1.8リッターの自然吸気として、ごく常識的な範囲に収まる。過給機に頼らないぶん、丁寧に走れば思いのほか伸びる。MTで自分のペースで変速できることも、無駄のない走りにつながる。維持費も、トヨタの量産車らしく現実的で、特別に身構える必要はない。部品の供給や整備の受けやすさも、長く乗るうえでは大きな安心になる。輸入スポーツのように、部品ひとつで頭を抱えることは、まずないだろう。
中古を選ぶときは、MT車ならではの点検も忘れずに。クラッチの繋がり具合や、各ギアのシフトフィールを、試乗でしっかり確かめたい。前オーナーが丁寧に乗ってきた個体かどうかは、シフトの感触に意外と正直に出るものだ。
派手な値上がりを期待する車ではない。だが、安く買えて、長く楽しめて、維持も気楽。趣味の一台としては、これ以上ないほど現実的な選択だ。家族のために実用車を選んだあなたが、こっそり通勤の相棒として迎えるにも、ちょうどいい一台かもしれない。
家族のために安全で快適な車を選んだことを、僕は決して間違いだとは思わない。それは、まぎれもなく正しい大人の選択だ。だが、その正しさの隣に、ほんの少しだけ「自分のための楽しみ」を置いておくことは、何も悪いことではない。むしろ、その小さな楽しみがあるからこそ、毎日の務めも、また頑張れるのではないだろうか。
オーリスRSは、そういう「大人のささやかな贅沢」に、ぴたりとはまる一台だ。背伸びをした高級スポーツでもなく、無理をした維持費のかかる車でもない。日常の延長線上で、こっそり走る喜びを味わえる。その身の丈に合った感じが、なんとも心地いい。
速さじゃない、毎日だ──いまオーリスRSに乗る意味

世の中の評価は、いつもわかりやすい数字に集まる。
何馬力か、何秒で加速するか、最高速はいくつか。その物差しで測れば、オーリスRSは、たしかに目立たない車だ。
でも、僕らが車と過ごす時間の大半は、サーキットでも、ゼロヨンの直線でもない。毎日の通勤路であり、買い物の道であり、なんでもない休日のドライブだ。その「毎日」を、ほんの少し楽しくしてくれるかどうか。本当は、そこにこそ、車の価値があるのではないか。
オーリスRSは、その「毎日」を豊かにしてくれる車だ。
左手でシフトを送り、左足でクラッチを合わせる。ただそれだけの操作が、見慣れた通勤路を、小さな遊び場に変えてくれる。数字には決して表れない、けれど確かな豊かさが、そこにはある。
20代の頃、僕は速い車にばかり憧れていた。馬力の数字を暗記して、誰のエンジンが上か、そんなことで一喜一憂していた。けれど、年を重ねて分かってきたのは、本当に毎日を支えてくれるのは、派手な刺激ではなく、ささやかでも続く楽しさだということだった。
その意味で、オーリスRSのような車は、大人になってからこそ、その良さが沁みてくる。若い頃には地味で物足りなく見えたかもしれない。だが今なら分かる。毎朝、当たり前のように走る喜びをくれる相棒ほど、得がたいものはないのだと。
よくある質問
オーリスRSは、本当に遅いのか。
絶対的な速さで言えば、けっして速い車ではない。高速の合流や登坂で、もう少しパワーが欲しいと感じる場面もある。だが、144馬力を公道で使い切れる楽しさこそがRSの本質だ。「速い車」ではなく「操って楽しい車」を求めるなら、遅さはまったく欠点にならない。
MTの評価は、どうなのか。
RSの6速MTは、評価が高い。当時すでにCVTが主流だった実用ハッチで、走りを楽しむためのMTを選べたこと自体が貴重だ。Valvematicの1.8を自分の手足で操る感覚は、地味ながら、一度知ると癖になる。MT目当てでこの車を探す人も少なくない。
Sパッケージとは、何か。
フォグランプやワイドタイヤ、16インチアルミホイールなどを備えた、走りと見た目を引き締める仕様だ。派手さはないが、ワイドタイヤによる接地感の向上は、走りの質を地味に高めてくれる。RSを選ぶなら、Sパッケージは魅力的な選択肢になる。
中古の狙い目や相場は、どうか。
状態の手頃な個体なら50万円ほどから、後期型は60万円台から、良い一台でも100万円台で手が届く。本格派のハッチをMTで楽しめてこの価格は、かなりお買い得だ。年式より、整備履歴とMTの操作感のしっかりした個体を、信頼できる店で選ぶのが鉄則になる。
カスタムは、できるのか。
もちろん可能だ。マフラーで音に表情を与え、足回りやホイールで雰囲気と接地感を磨く。素のシャシーがしっかりしているので、手を入れた成果が素直に返ってくる。ただ、過激に振るよりも、純正の良さを生かして控えめに仕上げるのが、RSらしい付き合い方だ。
まとめ

速い車は、いい。派手な車も、それはそれでいい。
でも、地味な顔の下に本性を隠した車にしか出せない、特別な満足がある。
左手と左足で、見慣れた通勤路を遊び場に変える。
そういうささやかな魔法を、オーリスRSは、毎朝、何の見返りも求めず、当たり前のように差し出してくれる。地味だと笑われても、その価値を知る者には、かけがえのない相棒になる。
あなたの毎日の通勤路は、このまま退屈なままでいいだろうか。
執筆:橘 譲二(たちばな・じょうじ)



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