パリの裏路地を、一台の小さなハッチバックが走り抜けていく。
雨上がりの濡れた石畳が、朝の光をやわらかく鈍く照り返している。カフェのテラスでは、淹れたてのエスプレッソの湯気が立ちのぼる。その風景のなかを、当たり前みたいな顔で駆けていくのが、ルーテシアだった。
本国フランスでは、どこにでもいる。けれど、日本では、滅多に見かけない。
この奇妙なギャップに、僕は昔から惹かれていた。世界で何百万台も売れたベストセラーが、海を渡った途端、ぐっと希少な存在になる。そこには、きっと語られるべき物語が眠っている。
──ルノー・ルーテシア。今日は、この控えめで、けれど芯から誇り高い、一台のフランス車の話をしたい。
パリの石畳と、見かけない名車

正直に書く。輸入コンパクトに憧れながらも、結局は信頼性と価格で、国産の実用車を選んできた人は多いはずだ。
壊れたら困る。維持費も読めない。ディーラーも遠い。だから、堅実な一台を選ぶ。その判断は、まったく正しい。賢明な大人の選択だ。
でも、街でたまにすれ違うあの小さなフランス車に、ふと目を奪われたことはないだろうか。どこか軽やかで、洒落ていて、それでいて媚びていない佇まい。あれが、ルーテシアだ。
「街で見かけない」という言葉には、どこか否定的な響きがある。人気がないから、壊れて消えたから、と。だが、ルーテシアに関しては、それは大きな誤解だ。
本国での名前は、クリオ。欧州を代表するベストセラーであり、Bセグメントというカテゴリーの王者だ。日本で見かけないのは、単に輸入される台数が少ないから。それだけのことなのだ。
考えてみれば、人と同じものを持つことに、いつから僕らはこだわるようになったのだろう。誰も乗っていない一台を選ぶことには、ささやかな勇気と、それ以上の誇りがある。
つまりルーテシアは、知る人ぞ知る、という言葉がよく似合う。みんなが持っているから、ではなく、自分が惚れたから選ぶ。そういう大人のための一台なのだ。
名前に隠された物語 ― クリオがルーテシアになった理由

そもそも、なぜ日本ではルーテシアと呼ばれるのか。ここに、ひとつ面白い物語がある。
本国での車名は、あくまでクリオ。ところが、日本ではこの「クリオ」という名前が、すでにホンダによって商標登録されていた。販売店の名として、使われていたのだ。
そこでルノーは、日本向けに別の名を用意した。それが、ルーテシアである。詳しい経緯はルノー・クリオのWikipediaにも記されている。
では、ルーテシアとは何か。これが、なんとも洒落ている。パリの古い呼び名、ルテティア(Lutetia)に由来するのだ。
はるか昔、ローマ時代。現在のパリのあたりは、ルテティアと呼ばれていた。語源をたどれば、ラテン語で泥や沼地を意味する言葉にいきつくという。セーヌの中洲に広がる、湿った大地。それが、のちに花の都となるパリの、出発点だった。
泥の沼地から、世界一華やかな都へ。その変遷を思うと、ルーテシアという名前が、急に味わい深く感じられてくる。地味な始まりから、磨かれて輝きを放つ存在へ。それは、この小さな車の歩みそのものにも、どこか重なって見える。
苦肉の策で付けられた名前が、結果として、パリへの深い敬意を宿す美しい響きになった。実車のラインナップはルノー・ジャポンの公式サイトで見ることができる。
名前ひとつにも、物語がある。それを知って乗るのと、知らずに乗るのとでは、ハンドルを握る時間の深さがまるで変わってくる。ルーテシアとは、そういう車だ。
35年の系譜 ― 初代から新型までの歴代

ルーテシアの歴史は、意外なほど長い。本国クリオとしての登場は1990年。すでに30年を超える歴史を刻んでいる。
初代は、あの偉大なルノー5(サンク)の後継として生まれた。手頃で、軽快で、それでいて作りが上質。Bセグの傑作として、欧州カー・オブ・ザ・イヤーにも輝いた。フランス車らしい合理と愛嬌が同居した一台だった。初代の魅力はビークルズの初代ルーテシア解説が詳しい。
2代目では、ラインナップが一気に豊かになる。4ドアセダンが加わり、後に語る怪物のようなV6モデルや、走りに特化したルノースポールも登場した。コンパクトながら、奥行きのある世界が広がっていった。日本で「ルーテシアは面白い」という評判が静かに根付き始めたのも、この頃だった。
面白いのは、ルーテシアが常に「等身大の上質」を体現してきたことだ。ドイツの高級車のような威圧感はない。けれど、ドアを閉めたときの音、シートの座り心地、ハンドルの重み。その一つひとつに、作り手のセンスが滲んでいる。背伸びをしない贅沢、とでも言えばいいだろうか。
3代目では、ボディがひとまわり成熟し、上質さを増す。そして4代目で、時代の波を受けてエンジンはダウンサイジングターボへと舵を切った。小排気量で、軽快に、そして低燃費に。この変化はビークルズの4代目ルーテシア解説に詳しい。
そして5代目で、ついにフルハイブリッドのE-Techが投入される。さらに最新の世代では、デザインを大胆に刷新し、先進のインフォテイメントをまとって、いまも進化を続けている。
時代が変わっても、芯にある「軽快で、上質で、どこか粋」というキャラクターは、不思議なほど揺るがない。それが、ルーテシアという車の一貫した個性なのだ。
R.S.という名の哲学 ― スポールとトロフィー

ルーテシアを語るうえで、決して外せないのがR.S.、ルノースポールの存在だ。
ルノースポールとは、ルノーの走りの部門が、心血を注いで仕立て上げるホットハッチ。そしてルーテシアのR.S.は、Bセグメントのスポーツモデルにおいて、長らく王者として君臨してきた。
とりわけ、3代目までのR.S.は伝説的だ。自然吸気の2.0リッターエンジンに、マニュアルトランスミッション。パワーで押し切るのではなく、シャシーの懐の深さで、コーナーを自在に駆け抜ける。その「曲がる楽しさ」は、多くのファンを虜にした。
数字じゃない。あのシャシーがもたらす、地面に吸い付くような一体感は、乗った者にしかわからない。
4代目のR.S.では、エンジンが1.6リッターの直噴ターボへと進化し、最高出力200馬力を発揮した。組み合わされるのは、6速のデュアルクラッチ。さらに過激なトロフィーは、出力と脚を磨き上げ、より鋭い走りを手に入れた。その実力はAUTOCARの4代目ルーテシアR.S.中古ガイドで読み解ける。
ステアリングを切り込んだ瞬間の、あの正確さ。狙ったラインを、寸分の狂いもなくトレースしていく感覚。アクセルを踏めば、軽い車体が弾むように前へ出る。ルーテシアR.S.は、速さよりも、走らせる歓びそのものを設計した車だった。
欧州では、このクラスのホットハッチが熱い火花を散らしてきた。プジョーやフォードといった好敵手と、サーキットで、そして読者の心のなかで、しのぎを削る。そんな激戦区で、ルーテシアR.S.は常に評価の頂点を争ってきた。Bセグの走りを語るうえで、避けては通れない名前なのだ。
ひとつだけ、ファンの間で意見が分かれる点がある。4代目でマニュアルが姿を消し、デュアルクラッチ一本になったことだ。利便性は上がった。けれど、あの自分で操る楽しさを惜しむ声も、根強い。それだけ、かつてのR.S.が与えた感動が深かったということだろう。
馴染みの輸入車店の店主が、こう言って笑っていた。
ルーテシアのR.S.を一度味わうと、もう抜けられないお客さんが多いんですよ。派手じゃないけど、芯から運転が楽しい。フランス車の真骨頂です。
V6という狂気 ― 普通の皮をかぶった猛獣

そして、ルーテシアの歴史には、一台だけ、常軌を逸したモデルが存在する。ルーテシアV6だ。
普通のルーテシアは、エンジンを前に積み、前輪を駆動する、ごく真っ当なコンパクトカーだ。ところが、このV6は違った。なんと、後席のあるべき場所に、3.0リッターのV6エンジンを押し込んだのだ。
つまり、ミッドシップ。スーパーカーと同じ思想を、小さなハッチバックのボディで実現してしまった。前後に張り出した巨大なフェンダーが、その尋常でない中身を物語っていた。詳しい成り立ちはビークルズの2代目ルーテシア解説にある。
その姿は、まるで羊の毛皮をかぶった狼。いや、もっと正確に言えば、子犬の着ぐるみを着た闘犬だ。愛らしい見た目の内側に、後輪を蹴り出す猛獣を飼っている。そのちぐはぐさが、たまらなく魅力的だった。
当然ながら、その走りは普通のコンパクトとはまるで別物。背中で唸るV6の咆哮、神経質なほど鋭い挙動。乗りこなすには相応の覚悟が要る、じゃじゃ馬だった。だからこそ、いまや希少なコレクターズアイテムとして、世界中の愛好家が血眼で探している。
後席を犠牲にし、荷室も削り、ただ走りのためだけにレイアウトを根本から作り変える。コンパクトカーで、そこまでやるか、と呆れるほどの本気。けれど、その無駄の塊のような潔さに、僕はどうしようもなく惹かれてしまう。
実用車の顔をして、こんな狂気を忍ばせる。このユーモアと本気の同居こそ、フランス車の底知れぬ奥深さなのだと思う。合理だけでは、決してたどり着けない場所が、この世界にはあるのだ。
新型ハイブリッドと中古の現実 ― 故障率・狙い方

では、現代のルーテシアと、中古で狙う際の現実に踏み込もう。
いまのルーテシアの主役は、E-Techフルハイブリッドだ。なんと、F1で培ったパワートレイン技術を応用した、先進のシステムを積んでいる。最高出力は160馬力相当、WLTCモードで25キロを超える低燃費を実現した。改良モデルの詳細はwebCGの最新ルーテシア試乗記が詳しい。
走りの軽快さと、つつましい燃費。その両立は見事で、新グレードのエスプリ アルピーヌは399万円という価格で送り出された。最新情報はカー・アンド・ドライバーの改良版ルーテシア記事にまとまっている。
サイズも、日本の道にちょうどいい。全長はおよそ4メートル、全幅も控えめで、狭い路地や立体駐車場でも気を遣わずに扱える。それでいて、室内や荷室は必要十分。背伸びをしない、賢いサイズ感だ。
内装も、世代を追うごとに磨かれてきた。最新モデルでは質感が一段と高まり、先進のインフォテイメントを備える。けれど、過剰に着飾ることはしない。必要なものを、心地よく。その引き算の美学が、いかにもフランス車らしい。
一方で、中古で狙うなら、フランス車ならではの注意点も知っておきたい。「故障」「故障率」で検索する人が多いのも、無理はない。
傾向として、電装系の小さなトラブルは出やすい。パワーウィンドウの不調、夏場のエアコンの効きの弱さ、といった声もある。また、R.S.の一部の年式には、リアスポイラーの脱落に関するリコールもあった。狙う個体が対策済みかどうか、これは必ず確認したい。弱点の詳細は部品屋の視点で解説されたルーテシアR.S.の弱点が参考になる。
維持費も、国産車より高めだ。消耗品は、おおむね倍。定期点検でも、まとまった出費を覚悟しておきたい。ただし、大きな故障は適切な整備で稀だとも言われる。中古の付き合い方はルーテシア中古の故障・維持費ガイドが現実的だ。
R.S.を狙うなら、過去に走りで酷使された個体や、雑な改造跡のある車両は避けたい。穏やかに乗られてきた一台ほど、本来のシャシーの良さを保っている。試乗で、ステアリングの素直さと足の動きを、自分の感覚で確かめてほしい。
要するに、こうだ。きちんと整備された個体を選び、こまめに手をかける。その覚悟さえあれば、ルーテシアは値段以上の歓びを返してくれる。フランス車との付き合いは、少し気難しい恋人と寄り添うことに似ている。手はかかる。けれど、それ以上に愛おしい。
よくある質問

どの世代・グレードを選ぶべきか
純粋な運転の楽しさを求めるなら、R.S.、とりわけ自然吸気にマニュアルを組んだ世代が魅力的だ。日常の足として低燃費と快適性を取るなら、現行のE-Techハイブリッド。普通のルーテシアでも、フランス車らしい乗り味と上質な内装は十分に味わえる。何を一番大切にするかで、選ぶ一台は変わってくる。
本当に壊れやすいのか?
過度に恐れる必要はない。電装系の小トラブルは出やすいが、大きな故障は適切な整備で稀だ。重要なのは、整備履歴のはっきりした個体を選び、信頼できる店で見てもらうこと。国産車と同じ感覚では難しいが、手をかける覚悟があれば、長く付き合える車だ。
R.S.とV6の違い
R.S.は、エンジンを前に積み前輪を駆動する、正統派のホットハッチ。シャシーの妙で「曲がる楽しさ」を突き詰めた一台だ。一方V6は、後席位置に3.0リッターV6をミッドシップ搭載した特異なモデルで、駆動方式も挙動もまるで別物。希少性も価格も、V6が圧倒的に上をいく。
なぜ街で見かけないのか
人気がないからではない。本国クリオは欧州屈指のベストセラーであり、中身は折り紙付きだ。日本で見かけないのは、単純に輸入される台数が限られているから。つまり「街で見かけない」ことは、希少性という価値の裏返しでもある。
まとめ

ルーテシアは、目立つ車ではない。街ですれ違っても、多くの人は気づかず通り過ぎていく。
でも、その小さな体には、パリの古い名前と、欧州を制したベストセラーの誇りと、ときに常軌を逸した情熱が詰まっている。知れば知るほど、味わいの増す一台だ。
みんなが選ぶから、ではない。自分が惚れたから選ぶ。輸入車に憧れながら堅実を選んできたあなたにこそ、一度はこの軽やかなフランス車のハンドルを握ってみてほしい。
街で見かけないことを、寂しがる必要はない。それはむしろ、あなたとルーテシアだけが静かに分かち合う、ささやかで上等な秘密のようなものだ。
あのパリの石畳を駆けていった小さな後ろ姿は、いまも僕の記憶のなかで、朝の光を受けながら軽やかに走り続けている。そしてその姿は、きっと、もう一度ハンドルを握る理由になる。
執筆:橘 譲二(たちばな・じょうじ)



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