あれは、九〇年代に入ったばかりの、まだ寒さの残る夜だった。
峠の駐車場に、見慣れた顔ぶれが集まっていた。三菱の四駆ターボ、スバルの青いセダン。エキゾーストの匂いと、缶コーヒーの湯気。誰もが、当時もてはやされた名前の中に身を置いて、少しだけ得意げだった。
その輪の端に、一台だけ毛色の違うクルマがいた。マツダのファミリア。三ドアの、ごく普通に見えるハッチバック。僕は正直、心のどこかで侮っていた。こんな地味なクルマで、何が楽しいんだと。
だが、そのリアゲートには、見間違いようのない三文字が光っていた。GT-R。日産の、あの伝説のためにあるはずの称号が、なぜマツダのファミリアに。あの夜の僕は、まだ何も知らなかった。
オーナーは、僕と同い年くらいの、口数の少ない男だった。彼がエンジンをかけた瞬間、その場の空気が、わずかに変わった。低く、密度のある排気音。決して野太くはない。けれど、芯のある、研ぎ澄まされた音だった。僕は、自分の浅はかさを、その夜のうちに思い知ることになる。
もう一台のGT-Rが、確かに存在した

GT-Rと聞いて、ほとんどの人がスカイラインを思い浮かべる。それは正しい。あの称号の重さは、本物だ。
けれど、その輝かしい名前の陰で、マツダもまた、堂々とGT-Rを名乗る一台を世に放っていた。ファミリアGT-R、型式BG8Z。一九九二年のことだ。
知る人ぞ知る、という言葉がある。だが、ファミリアGT-Rは、その「知る人」すら、いまではずいぶん少なくなってしまった。先日、馴染みの旧車店の店主がこぼしていた。
ファミリアにGT-Rがあったことを覚えてる客は、もう半分もいないよ。でも、知ってる奴は、名前を出した瞬間に目の色が変わる。
その気持ちは、痛いほどわかる。有名なものだけを追いかける流れの中で、本物を見抜く目を持っているという、ささやかな誇り。それは、声高に自慢するものじゃない。胸の奥で、静かに温めておくものだ。
そもそもファミリアという名前には、いささかの誤解がつきまとう。ファミリー、つまり家族のためのクルマ。手頃で、実用的で、優等生。そういうイメージだ。実際、ファミリアは長らく、町の暮らしを支える堅実な小型車だった。
だからこそ、その名にGT-Rを冠したことの意味は、重い。家族のための優等生が、ある日、レーシングスーツを着込んで峠に立つ。そのギャップの中にこそ、このクルマの物語が宿っている。普段は穏やかな男が、一度だけ見せる本気の表情。そういう色気が、ファミリアGT-Rにはあった。
マツダがこのクルマに「GT-R」という大きな称号を与えたのには、理由がある。これは、ただの上級グレードではなかった。世界と戦うために生まれた、本気の一台だったのだ。
BP型210馬力という、1.8リッターの執念

ファミリアGT-Rの心臓は、BP型と呼ばれる、一八三九ccの直列四気筒DOHC。そこにインタークーラー付きのターボを組み合わせて、最高出力210馬力を六〇〇〇回転で、最大トルク25.5kgmを四五〇〇回転で叩き出す。
この数字を、ただの数字として読み流してほしくない。一・八リッターで二一〇馬力。リッターあたり、実に一一四馬力だ。いまでこそ珍しくないが、九〇年代初頭の量産ターボとして、これは尋常な密度ではなかった。
あの夜、僕が侮っていたファミリア。その地味なボンネットの下で、これほどの執念が渦を巻いていたとは、想像もしていなかった。数字だけ見れば、現代のスポーツカーに見劣りするかもしれない。だが、回したときに背中を蹴飛ばしてくる力の唐突さは、馬力の数値だけでは語れない。GAZOOの名車解説でも、このクルマは「リッター100馬力超」の希少な存在として紹介されている。
軽い車体に、210馬力。この組み合わせが、何を意味するか。三ドアハッチバックという、もともと身軽な器に、有り余る力を詰め込んだということだ。重いクルマを力でねじ伏せるのではない。軽いクルマを、力で空へ放り投げる。その軽快さこそが、ファミリアGT-Rの走りの本質だった。
峠の登りで、ターボが本格的に目を覚ます瞬間がある。回転計の針が、ある領域を超えたとき、背中をぐっと押す力が、唐突に分厚くなる。それまで穏やかだったクルマが、急に肩の力を抜いて、本気を出してくる。あの段つきの過給感は、いまの滑らかなエンジンには、もう味わえない。荒削りで、正直で、だからこそ忘れられない加速だった。
GT-Xを、もう一段だけ研ぎ澄ます
もともとファミリアには、GT-Xという四駆ターボの先輩がいた。同じBP型を積み、180馬力を発生する、これはこれで上等なクルマだった。
では、GT-Rは何が違うのか。マツダは、このエンジンに手を入れた。コンロッドと排気バルブを、強度と耐熱性に優れた専用品に置き換え、ターボチャージャーを大型化した。素性のいいエンジンを、もう一段だけ、丁寧に研ぎ澄ましたのだ。
つまりGT-Rのエンジンは、いきなり生まれた化け物ではない。GT-Xという土台を、職人が時間をかけて鍛え直した刀だった。父が整備工場で、古いエンジンを一つひとつ手で組み直していた、あの工具の音を思い出す。本物は、いつだって地道な手仕事の先にある。
WRCのために生まれ、WRCに立てなかった

なぜマツダは、ここまでして210馬力のファミリアを作ったのか。答えは、WRC。世界ラリー選手権だ。
当時のトップカテゴリー、グループAには、ある決まりがあった。一定台数の市販車を作らなければ、その改造版でレースに出られない。だから各メーカーは、ラリーで勝つための「種」となる市販車を、世に送り出した。ファミリアGT-Rは、まさにそのホモロゲーション取得のために生まれた一台だった。GAZOOの記事も、このクルマをWRCホモロゲモデルと明確に位置づけている。
ファミリアは、欧州では「マツダ323」の名で戦っていた。先代にあたるGT-Xの時代には、一九九〇年の1000湖ラリーで、ティモ・サロネンが総合六位に食い込む健闘も見せている。マツダのラリーへの本気は、決して付け焼き刃ではなかった。
サロネンといえば、ラリーの世界では誰もが知る名手だ。その彼が、マツダのファミリアでステアリングを握り、フィンランドの飛ぶような高速ステージを駆け抜けていた。その事実だけで、僕の胸は少し熱くなる。地味だと侮っていたあの三ドアの祖先は、世界の頂点で、確かに戦っていたのだ。
GT-Rは、その血を受け継ぎ、さらに前へ進むために生まれた。グループAという舞台で勝つには、まず決められた台数の市販車を作らねばならない。210馬力という出力も、鍛えられた4WDも、すべては勝利という一点に向けて設計された機能だった。無駄な飾りは、どこにもなかった。
だが、ここに、胸を締めつける事実がある。GT-Rが世に出た頃、日本はバブルの宴の終わりを迎えていた。マツダは経営の現実の前に、WRCからも、ル・マンからも、撤退を余儀なくされる。世界で戦うために生まれたGT-Rは、ついにその本来の戦場で、晴れ姿を見せることなく終わった。
僕には、このクルマが、招待されなかった舞踏会のために仕立てられた、最高の礼服のように思えてならない。袖を通す日を夢見て、寸分の狂いもなく縫い上げられた一着。けれど、その扉は、ついに開かなかった。だからこそ、この礼服には、勝者にはない静かな美しさが宿っている。報われなかったものだけが持つ、あの陰影が。
フルタイム4WDとビスカスLSD、見えない賢さ

ファミリアGT-Rの賢さは、エンジンだけにあるのではない。むしろ、その真価は足元に隠されている。
駆動方式は、フルタイム4WD。前後のトルク配分は、基本で43対57。わずかに後ろが多い。この配分が、四駆でありながら、後輪駆動に近い自然な旋回の感覚を生む。さらにセンターデフにはビスカスLSDが組み込まれ、路面の状況に応じて配分を43対57から60対40の間で自動的に変えていく。リアのデフにも、同じくビスカスLSDが奢られていた。
派手じゃない。でも、効く
これらの機構は、乗っていて存在を主張しない。タコメーターのように、目で見えるわけでもない。けれど、濡れた路面でアクセルを踏み込んだとき、四つのタイヤが静かに地面を掴んで、クルマが思った通りに前へ出ていく。その瞬間に、初めて「ああ、効いている」とわかる。
思えば、一九九二年という年は、特別だった。三菱がランサーの初代エボリューションを、スバルがインプレッサのWRXを、相次いで世に出した年でもある。日本のラリーベース四駆ターボが、一斉に立ち上がった、あの熱い季節。ファミリアGT-Rは、その群雄割拠のただ中に、静かに、しかし確かに立っていた一台だったのだ。
歴史は、勝者の名前で語られる。その後のラリーシーンを彩ったのは、ランサーとインプレッサだった。それは、紛れもない事実だ。だが、同じ志を抱いて、同じ年に生まれた四駆ターボが、もう一台あったことを、僕は忘れたくない。光の当たり方が違っただけで、込められた本気の量は、決して劣らなかった。
濡れた峠道で、このクルマの四駆が見せる安定感は、当時、同乗させてもらった僕の記憶に、いまも鮮明に残っている。リアがわずかに沈み込み、四つのタイヤが等しく路面を捉え、コーナーの出口に向かってクルマが一直線に押し出される。怖さがない。だから、踏める。あの安心して踏み込める感覚こそ、フルタイム4WDという賢さが、ドライバーに贈る最大の贈り物だった。
GT-Aeという、競技だけを見つめた弟

ファミリアGT-Rには、さらに突き詰めた弟分がいた。GT-Aeという名の、競技専用のモデルだ。
これは、ダートトライアルやジムカーナといった競技に出るユーザーのために、GT-Rをベースに仕立てられた一台だった。ベストカーの記事によれば、その生産はわずか300台限定。クロスミッションを備え、勝つために要らないものを、徹底的に削ぎ落としていた。
快適装備を省き、ひたすら軽く、ひたすら競技のために。その潔さに、僕は静かな憧れを覚える。すべての贅肉を捨てて、一つの目的だけを見つめる。そういう生き方ができるクルマは、いまではもう、ほとんど残っていない。
学生時代の走り屋仲間に、あえてランエボでもインプでもなく、このマツダの四駆を選んだ男がいた。理由を聞くと、彼は短く笑って言った。「人と同じが、嫌だったんだ」と。あの夜、峠の輪の端に佇んでいたファミリアの孤独な背中が、いまも目に焼きついている。
多数派につくのは、楽だ。情報も多いし、仲間も見つけやすい。だが、世の中には、あえて少数派の道を選ぶ者がいる。誰も振り向かないクルマの中に、自分だけが知っている価値を見出す。その孤独を、誇りに変えられる人間がいる。GT-Aeという、競技だけを見つめた潔い弟分は、そういう天邪鬼な心に、いまも静かに語りかけてくる。
いま、ファミリアGT-Rを探すということ

では、いまこのクルマを手に入れようとすると、どうなるのか。正直に言おう。簡単な道のりではない。
もともとの生産台数が限られたうえ、ラリーや走りに使われた個体が多く、状態のいいタマは年々減っている。中古市場での流通はごくわずか。価格も、かつての「不人気な中古車」だった頃とは、まるで様子が変わってきた。希少な四駆ターボとして、静かに、しかし確実に評価が上がりつつある。
数年前、地方のマツダ車の集まりで、一台だけ姿を見せたGT-Rがあった。オーナーは誇らしげでありながら、ふと表情を曇らせて、こう漏らしていた。
一番つらいのは、部品がもう出ないことだよ。一つ壊れるたびに、世界中を探すんだ。
覚悟が要る。手間も、金も、忍耐も。それでも、このクルマを選ぶ人がいる。報われなかったチャンピオンに、もう一度光を当ててやりたい。そういう、損得を超えた想いで。僕には、その気持ちが、よくわかる。
古いクルマを所有するというのは、効率の対極にある行為だ。新しいクルマなら、ボタン一つで快適に、何の心配もなく走れる。それと比べれば、ファミリアGT-Rとの暮らしは、手間ばかりがかかる。だが、その手間の一つひとつが、クルマとの対話なのだ。今日は機嫌がいいな。少し調子が悪そうだな。そうやって機械の声に耳を澄ます時間は、いまの世の中が静かに手放してしまったものの、かけがえのない一片だと思う。
家族のために実用車を選び、走る歓びを胸の奥にしまった。それは、立派な大人の選択だ。誰にも責められるものではない。けれど、もしあなたの心の奥に、まだ消えない火種が残っているなら。こういう一台が、いまも世界のどこかで、静かに次のオーナーを待っていることを、知っておいてほしい。
よくある質問

ファミリアGT-Rは、日産のGT-Rと関係があるのですか
直接の関係はない。GT-Rという称号そのものは日産のスカイラインで広く知られているが、ファミリアGT-Rはマツダが独自に与えた最強グレードの名前だ。同じ三文字でも、まったく別の血統を持つ、別のクルマだと考えてほしい。
GT-RとGT-Xは何が違うのですか
同じBP型エンジンを積むが、出力が違う。GT-Xが180馬力なのに対し、GT-Rは210馬力。コンロッドや排気バルブを専用の強化品に置き換え、ターボを大型化することで、この差を生んでいる。GT-Rは、GT-Xをさらに一段、競技のために鍛え上げた上位モデルだ。
GT-Aeとは何が違うのですか
GT-Aeは、GT-Rをベースにした競技専用の限定モデルで、生産は300台ほど。クロスミッションを備え、快適装備を省いて軽量化されている。公道での快適さよりも、ダートトライアルやジムカーナでの戦闘力を優先した、より尖った一台だ。
中古で狙うときの注意点は
まず、タマ数が極端に少ないこと。そして、部品の供給が年々厳しくなっていること。四駆まわりやターボの状態は必ず確認したい。安く買えるクルマではなくなってきているので、価格だけでなく、維持していく覚悟も含めて判断してほしい。信頼できる旧車の専門店を味方につけるのが、遠回りのようで一番の近道だ。
まとめ

あの夜、峠の輪の端で、僕が侮っていた一台。その地味なボディには、世界と戦うための執念と、ついに叶わなかった夢が、静かに詰め込まれていた。
速いクルマは、世の中にいくらでもある。だが、報われなかったものだけが持つ、あの陰のある美しさは、そう簡単には手に入らない。
表彰台に上がれなかったチャンピオンが、いまも静かに、どこかのガレージで、君に見つけられる日を待っている。
執筆:橘 譲二(たちばな・じょうじ)
情報ソース一覧
- マツダ ファミリアGT-R…90年代、リッター100馬力超モデル(GAZOO)
- WRCホモロゲモデルのファミリア『GT-R』でスタンプラリーを愉しむ(GAZOO)
- 超ド級! 歴代WRCベース車 5選(ベストカー)
- ファミリアGT-R(名車文化研究所)
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