2012年の春の昼、僕は埼玉のあるサーキットで、初代BRZの試乗の順番を待っていた。並んでいた人の多くが、20代と50代に二極化していた。20代は次の愛車として、50代はかつての記憶を取り戻すために、その低い屋根のクルマの周りに集まっていた。僕は30代の真ん中で、その両極のどちらにも属していなかった。
順番が回ってきて、運転席に体を沈める。シートに座った瞬間、視線が地面に近づく感覚があった。エンジンを掛けると、水平対向の低い音が腰のあたりから伝わってきた。──ああ、これは、僕が長いあいだ会わずにいた種類のクルマだ。そのときに感じた感覚を、僕は今も覚えている。あれから10年あまり。BRZはZC6からZD8へと世代を重ね、トルクの谷は静かに消えた。それでも、消えなかった矜持がある。
2012年の春、初代BRZの運転席で僕は視線を下げた

あの日、試乗コースは中速のRが続くワインディングだった。ステアリングを軽く切ると、フロントが素直に内側を向く。タイヤの設置感がはっきりと伝わってきて、四輪が地面と会話しているような感覚があった。それまで僕が乗っていた車たちは、ステアリングの感触と路面の情報の間に、薄い膜が一枚あった。BRZには、その膜がなかった。
4,000回転を超えたあたりで、エンジンがすこし息を吸い直すような瞬間があった。有名な「トルクの谷」だった。当時の自動車誌はその谷を弱点として書き、ネット上には「もう少しトルクがあれば」という声があふれていた。だが、僕にとってその谷は、欠点ではなかった。むしろ、ドライバーの右手と右足に「ここはお前の仕事だ」と言ってくる、ある種の問いかけだった。
シフトレバーを握る手のひらにはわずかな汗があり、その下からアルミ削り出しの冷たさが伝わってきた。3速から2速へ落とし、回転を合わせる。その一連の動作の中で、僕は20代の頃の自分に少しだけ戻った。スペックではなく、所作のクルマだった。
試乗から戻って、駐車場の隅に停められた他のメディア車両の隣にBRZを並べる。エンジンを切って、シートベルトを外し、ドアを開ける前に、しばらくそのまま座っていた。視線の高さが、現実の世界に戻った瞬間、少しだけ寂しかった。それくらい、運転席の低さは、特別な記憶として残った。
BRZが生まれた本当の理由。ある主査の世界一周

このクルマが、ただトヨタとスバルが資本提携の都合で作ったものではない、ということを語っておきたい。BRZの企画は、トヨタの開発主査・多田哲哉氏が、2000年代後半に世界中をリサーチして得た一つの結論から始まっている。
車名「BRZ」の3文字に込められた哲学
まず、車名の意味から押さえておきたい。BはBoxer engine、RはRear wheel drive、ZはZenith。それぞれ、水平対向エンジン、後輪駆動、究極を表している。スポーツカーの3つの要素を、頭文字に閉じ込めた命名だ。長くて装飾的な車名がもてはやされる時代に、たった3文字で言いたいことを言い切る。その潔さに、僕はこのクルマの設計思想の核を見る。
トヨタとスバル、その役割分担の妙
MOTAの解説記事によれば、多田主査が世界をリサーチして得た結論は「シンプルで安く乗りやすく、チューニングしやすいクルマが求められている」というものだった。彼はそれをスバルに持ち込み、2008年4月、両社は正式に共同開発を発表した。
役割分担はこうだった。トヨタが商品企画・プロモーション・プロダクトデザインを担い、スバルが開発・設計・製造を担う。フロントマスクが86とBRZで違うのは、トヨタが意匠を、スバルが中身を、それぞれ責任を持って手掛けているからだ。発売は2012年3月28日。トヨタ86は同月29日。たった1日違いの兄弟が、群馬の同じ工場ラインから世界に送り出された。
初代ZC6の「トルクの谷」を、僕らは愛していた

初代BRZ、型式ZC6。搭載エンジンは2.0L 水平対向4気筒 NA「FA20」。最高出力は200PS(後期型で207PS)、最大トルク205Nm。発生回転数は6,400〜6,600rpmという高回転寄りの設定だった。
FA20が4,500回転で見せた、あの一瞬の物足りなさ
FA20は、4,500回転前後で一度トルクが薄くなる瞬間を持っていた。コーナーの立ち上がりで、その回転域に当たると、加速がふっと軽くなる。多くのレビュアーがそこを「弱点」として書いた。だが、初代に長く乗り続けたオーナーたちは、その谷を別の名前で呼んでいた。「腕の見せどころ」と。
シフトを一段落とせばいい。クラッチを切り、回転を合わせ、繋ぐ。その一連の動作で、谷は埋まる。FA20は、ドライバーに「お前がやれ」と要求するエンジンだった。電子制御で全部を解決してしまう現代のクルマからは、こうした「乗り手への要求」は静かに消えつつある。BRZが守ったのは、馬力でも価格でもなく、その要求の質そのものだった。
峠で会った初代乗りの、10年後の答え
大学時代の走り屋仲間が、初代BRZを10年乗り続けていた。先日、その彼が2代目ZD8に乗り換えた。連絡をもらって、近所のコーヒースタンドで会ったとき、彼はこう言った。
「初代の谷も含めて愛していた。でもZD8に乗り換えて分かった。あの谷は、僕らが頑張って埋めていただけだったんだな」
その言葉に、僕は10年分の重みを感じた。初代の谷を否定するわけではない。むしろ、その谷を埋めるために費やされた、何十万回ものシフト操作と回転合わせの時間が、彼の腕と感覚を作ったのだ。2代目は、その時間に対する、メーカー側からの一つの返答だった。
2代目ZD8。谷は消えた、矜持は残った

2021年8月、2代目BRZが発売された。型式はZD8。エンジンは2.4L水平対向4気筒NA「FA24」へと刷新された。最高出力235PS/7,000rpm、最大トルク250Nm/3,700rpm。SUBARU公式が記すとおり、D-4S(筒内直噴+ポート噴射)の併用で、低回転からのトルクを太らせた。
FA24が解決した「中速の停滞」
排気量を400cc拡大したことの意味は、数字以上に大きかった。Car Watchの試乗記でも、コーナー立ち上がりがスムーズになったことが評価されている。最大トルク発生回転数が6,400→3,700rpmへと大幅に下がったことで、街中の40〜70km/hの領域で扱いやすくなった。日常で踏める速度域に、トルクが正しく宿るようになった。
それでも、と僕は思う。それでも、初代の谷を埋めるためにシフトを送っていたあの時間は、無駄ではなかった。あの時間こそが、僕らの「クルマと会話する」感覚を育てたのだから。
電子制御を増やさなかった、もう一つの矜持
Webモーターマガジンが指摘するとおり、2代目は安全装備こそ充実したが、走りの根幹である「NA水平対向 + FR + MT」という公式を変えなかった。ターボ化もしなかった。ハイブリッド化もしなかった。電子制御の介入を増やして、誰でも速く走れる方向に振らなかった。
これは、現代において、ほとんど頑固と言っていい姿勢だ。BRZは、馬力競争に参加しないことを、自らの矜持として選んだ。スバルとトヨタが共有しているこの設計思想こそが、このクルマを「2代目になっても、まだBRZである」たらしめている。
BRZと86、同じ工場で生まれた兄弟の別々の人生

BRZと86(現GR86)は、同じ群馬製作所・矢島工場のラインから出荷される。骨格もエンジンもほぼ共通。だが、運転席に座って走り出すと、味は微妙に違う。
BRZはステアリングの応答が穏やかで、安定方向に振ってある。誰が乗っても、まず安心して曲がれる。一方の86/GR86は、もう少しリアの動きを許す方向にチューニングされていて、攻めるほどに楽しい性格を持つ。ベストカーの分析によれば、この差はサスペンションのセッティングと電子制御の介入度合いに由来する。
どちらが上ではない。「家族にも理解されやすいスポーツカー」を選びたい大人にはBRZ、「もう一段、刺激が欲しい」と思う若い心にはGR86、という棲み分けが自然にできあがっている。同じ工場から生まれた兄弟が、それぞれ別の家族に迎えられて、別々の人生を歩んでいる。そう考えると、この共同開発というプロジェクトは、想像以上に美しい結末を迎えている。
実際、関東のスバルディーラーで聞いた話によれば、ZD8の試乗で「初代に乗っていた」と話されるお客様のほぼ全員が、コーナーの立ち上がりの違いに最初に驚かれるという。同じ群馬で組まれた兄弟車でも、味の選び方は異なる。BRZを選ぶ大人は、その「穏やかな安定」を、自分の生き方の延長として受け入れている。
余談だが、僕の友人で、GR86を所有しながら週末はBRZのオーナーズミーティングに顔を出す変わり者がいる。彼に理由を聞くと、「俺はGR86の刺激も欲しいけど、BRZ乗りの大人たちの落ち着いた話し方も好きなんだよ」と笑っていた。クルマ選びは、結局のところ、自分がどの人たちと並んで時間を過ごしたいか、という選択でもある。
2026年、BRZの中古を選ぶということ

中古市場の現在を、数字で押さえておこう。初代ZC6の流通価格は、状態と年式によって70万円台から500万円台までと、極めて幅が広い。後期(2016年G型以降)で207PS化された個体や、低走行のtSなどは、価格が落ちにくい。
初代ZC6の中古相場は70万〜558万円
初代ZC6を選ぶ場合、見るべきポイントは整備履歴、リアデフのオイル管理、エンジン下のゴムブッシュ類の劣化具合、そしてクラッチの残量だ。10年経過した個体が多いので、消耗品交換歴がしっかりしている個体を選びたい。安く買えても、最初の1年で50万円かけて手を入れる、という結果になることもある。
とくにFA20は、長年高回転を多用してきた個体ほど、オイル管理の差が出る。納車整備のときに、オイルとプラグ、冷却水まわりを一通り見直してくれるショップで買うことが、結局は安く付く。「最初の半年で本当の状態が見える」と、整備士の友人がよく言っていた。書類より、実走の感触と、整備士の見立てを信じるのが正解だ。
2代目ZD8と限定モデルの位置付け
2代目ZD8は、中古市場で254万〜340万円のレンジで取引されている。STI Sportなら340万円〜400万円。そして、WEB CARTOPが紹介する300台限定の「BRZ STI Sport TYPE RA」は、S耐レースカー由来のフラットシフトとバランス取りされたFA24を搭載した特別仕様で、市場に出てくれば確実にプレミア化する1台だ。
Car Watchによれば、スーパーGTのGT300クラスでは、2026年からBRZが新エンジン「EG33改」3.0L水平対向6気筒ターボに切り替えられる。スバルがこのクルマでレースを戦い続ける覚悟が、市販車のブランド価値を静かに底上げしている。
よくある質問

初代BRZと2代目BRZ、どちらを買うべきですか?
予算と求めるものによる。100万円台で手応えのあるNA+MT+FRを味わいたいなら初代ZC6、完成度の高い設計と十分なトルクで日常から峠まで楽しみたいなら2代目ZD8。初代は「腕を作る車」、2代目は「腕を活かせる車」。乗り方が変わるのではなく、車との関係の質が変わる。
BRZと86/GR86、どちらが正解ですか?
どちらも正解。BRZはハンドリングが穏やかで安定方向、86/GR86はリアの動きをやや許す方向。フロントマスクの好みもあれば、ディーラーとの関係性で選ぶのもいい。試乗して、自分の右手と右足が素直に反応する方を選ぶのが、結局は一番幸せな買い方だ。
BRZの維持費はどのくらいですか?
年間20万〜25万円程度が目安。スポーツタイヤとブレーキパッドの消耗が一般車より早いので、その分は見ておきたい。だが、自然吸気で過給機がないぶん、ターボ車に比べてエンジン本体のトラブルが少ない。スポーツカーとしては良心的な維持費だと言える。
BRZの燃費はどうですか?
2代目ZD8のWLTCモード燃費はMTで11.8km/L、ATで12.0km/L。実燃費は街乗り中心で9〜10km/L、郊外巡航で12〜13km/L程度。NA+MTゆえに、踏み方で大きく変わる。低回転トルクが太くなった2代目は、流すように走れば意外に伸びる。
BRZをターボ化したらどうなりますか?
後付けターボの世界は存在するし、否定はしない。だが、メーカーが「NAで」という前提で全体のバランスを取って作ったクルマに過給機を追加すると、足回りやブレーキ、ボディ剛性とのバランスが崩れることがある。あえてターボにしないという選択肢が、このクルマの場合は十分に「正解」だと、僕は思っている。
まとめ

BRZというクルマは、最新のスペックを誇示するためのクルマではない。馬力を競うクルマでもない。それは、「シンプルで安く乗りやすく、チューニングしやすい」という、ひとりの主査の世界一周の結論を、今もなお形にし続けている、頑固な一台だ。
初代ZC6が見せた中速トルクの谷は、僕らの腕を作った。2代目ZD8がその谷を埋めたあとも、NA+FR+MTという設計思想は変わらなかった。そして2026年、スバルはスーパーGTの世界でも、BRZというクルマを進化させ続けている。
家族のために実用車を選んだあなたは、間違っていない。子どもの送り迎えで毎日を回しているあなたは、誇っていい。それでも、もし心の奥に、低い運転席から見上げた空の記憶が残っているなら、そのキーを、もう一度手に取ってみてもいいのかもしれない。
10年が経った。エンジンは2.4Lに育ち、トルクの谷は静かに埋まった。それでも、低い運転席に座って、水平対向の音を聞きながら、ゆっくりとクラッチを繋ぐ──あの所作だけは、何も変わっていない。
2012年の僕が見上げた空の青さは、今もこの低い運転席の真上に残っている。
執筆:橘 譲二(たちばな・じょうじ)



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