深夜の交差点で、その箱は隣に並んだ。
白でも黒でもない、くすんだシルバーのセダン。背は高く、フォルムはどこか欧州車めいていて、けれど立派さを主張してこない。エンブレムを見るまで、僕はそれが何なのか分からなかった。誰も振り返らない、ただの実用車。そう思っていた。
信号が青に変わる。
隣の箱は、何事もなかったように発進した。けれど次の瞬間、僕の鼓膜に残ったのは、低く始まって高く澄んでいく、あの細い金属質の伸び音だった。七千回転の手前まで、一度も濁らない。テールランプが小さくなる頃、僕はまだ二千回転で走っていた。
追いかけはしなかった。
ただ、置いていかれた静けさの中で、ひとつだけ思った。あれは、速さを叫ばない速さだった、と。
今日は、その箱の話をしようと思う。
日産プリメーラ 20V。地味で、無口で、けれど回した者だけが知っている、ある種の贅沢についての話を。
あの夜、信号で消えたプリメーラ 20Vの背中

もう十年以上前の話になる。
その頃の僕は、派手な車にすこし疲れていた。二十代を共にしたR32も、S14も、確かに胸を焦がしてくれた。だが四十を前にして、僕の耳は、別の種類の音を探し始めていた。
叫ばずに速い、という音だ。
あの夜、信号で消えていったプリメーラ 20Vの背中は、まさにそれだった。エキゾーストは大きくない。けれど回転が上がるにつれて、音の芯が一本、すっと立ち上がっていく。それは威嚇ではなかった。静かな確信のようなものだった。
プリメーラ 20Vは、声を張らない秀才に似ている。
教室のいちばん隅で、誰よりも静かに座っている。問いが配られても、慌てない。けれど答案を開けば、そこに書かれた答えだけが、誰より速い。七千回転の手前までは、ほとんど何も言わない。そこから先で、ようやく本当の声を聞かせてくる。そういう車なのだ。
派手なエアロも、爆音のマフラーもいらない。
静かなまま、しなやかに、ただ正確に速い。あの背中を見送ってから、僕はずっと、この無口な秀才のことが気になっていた。
プリメーラ 20Vとは何者か──P10からP12までの系譜

プリメーラという車を、ただのセダンだと思っているなら、それは少し惜しい。
この車は、生まれた時から欧州を見て育った、ちょっと変わった日本車なのだ。
初代、型式でいうP10。一九九〇年の登場だ。
このP10が、欧州カー・オブ・ザ・イヤーで二位に輝いた。日本車として、初めての快挙だった。理由は明快で、その走りが「日本車離れしている」と評されたからだ。背景には、当時の日産が掲げた901運動がある。一九九〇年までに技術で世界一を、という静かな号令だ。
その思想は、足回りに刻まれている。
前輪はマルチリンク。コストのかかる凝った構造を、実用セダンに惜しげもなく与えた。硬めの乗り味は当初、国内で賛否を呼んだ。けれど、ハンドリングという一点において、この車は最初から本物だった。詳しい系譜は日産プリメーラのWikipediaに丁寧に残されている。
もうひとつ、忘れてはいけない事実がある。
プリメーラは、英国サンダーランドの工場でも作られていた。欧州の道で鍛えられ、欧州の客に選ばれた、稀有な日本製の箱だったのだ。地味な外見の奥に、これだけの血が流れている。それを知るほどに、僕はこの車が好きになっていった。
そして、この車にはレースの記憶もある。
英国ツーリングカー選手権、いわゆるBTCC。プリメーラはこの過酷な舞台で戦い、一九九八年にマニュファクチャラーズタイトルを獲った。日本車として、BTCC史上初のシリーズチャンピオンだ。翌年はさらに圧倒的だった。地味な実用セダンの奥に、サーキットで欧州勢を静かに置き去りにした、しなやかな脚が隠れていたのである。
こういう車に、僕は弱い。
胸を張って自慢してこない。けれど経歴を辿ると、静かにとんでもない。プリメーラ 20Vは、その血筋を最も色濃く受け継いだ、系譜の終着点に近い一台だった。
P11とP12、二つの「20V」──190psと204psのスペック

さて、ここからが本題だ。
「20V」というグレードは、実はひとつの世代だけのものではない。二代目のP11系と、三代目のP12系。二つの時代に、別々の顔をして存在していた。
まずP11。二代目だ。
このP11系に積まれたSR20VEは、190馬力を7000回転で発生した。セダンやワゴンに、回して楽しむ高回転型のグレードが用意されていた。当時としては、実用セダンに与えるには贅沢すぎる心臓だった。
そして、僕がいちばん語りたいのが三代目、型式P12の「20V」だ。
二〇〇一年八月二十八日、セダンとワゴンに「20V」「W20V」が追加された。この経緯はくるまのニュースのP12解説記事にも詳しい。心臓は磨き直されたSR20VE。最高出力は204馬力を7200回転で、最大トルクは21.0kgmを5200回転で発生した。
スペックを、もう少し並べておこう。
車重はわずか1320kg。排気量2.0リッターの2.0 20vに、組み合わされるのは6速MT。CVTも選べたが、この心臓の本当の声を聞くなら、迷わず六速だ。価格は239万円ほど。羊の皮をかぶった、という古い言い回しが、これほど似合う箱もない。
204馬力。
数字だけ見れば、現代の感覚では慎ましい。だが、この車の面白さは、ピークの数値そのものにはない。1320kgという軽さに、回して伸びる二リッターを積んだ、その配合の妙にある。ちなみにこの良き「20V」は、二〇〇三年のマイナーチェンジで静かに姿を消した。名乗った時間は、驚くほど短かったのだ。
短かったからこそ、いま中古で探すと、その希少さが胸に沁みる。
派手に散ったわけではない。ただ、静かに役目を終えていった。そういう引き際まで、この車はどこか無口だった。
SR20VE NEO VVLという、回して伸びるエンジン

このエンジンの話を、五感抜きで語ることはできない。
SR20VE。直列四気筒、1998cc。圧縮比は11.0と高く、ハイオクを欲しがる。だが、本当に語るべきは数字ではなく、その心臓に仕込まれたNEO VVLという仕掛けの方だ。
NEO VVLとは、ごく簡単に言えば、カムの「持ち替え」だ。
低い回転で使うおとなしいカムと、高い回転で使う鋭いカム。その二種類を、油圧でぱちりと切り替える。下では穏やかに、上では獰猛に。ひとつのエンジンが、回転数によって二つの人格を行き来する。そういう仕組みだ。
だから、街中を流しているだけでは、この心臓は本当の声を出さない。
静かで、従順で、拍子抜けするほど普通の二リッターに思える。けれど、アクセルを床まで踏み込み、回転計の針が上の方へ駆け上がっていくと──ある回転を境に、音と伸びが、すっと別物に変わる。
ターボみたいに殴ってこない。でも七千まで回すと、後半だけ、別のエンジンになるんだよ。
昔の峠仲間が、このエンジンをそう言い表したことがある。
言い得て妙だと思う。低い回転の無口さと、高い回転の伸びやかさ。その落差こそが、SR20VEという心臓の正体だ。技術的な背景は日産VVLエンジンの英語版Wikipediaに細かく記録されているが、知識として知るより、一度回して体で知る方がずっと早い。
ここでの「速い」は、力で押し潰す速さではない。
自分の右足で回転を保ち、切り替わりの瞬間を捉え、伸びていく後半を使い切る。操って速い、という古い種類の快楽だ。日産が市販の自然吸気で最後に磨き上げた、高回転の作法。それが、このエンジンには宿っている。
切り替わりの一瞬を、右足で待つ楽しさ
この心臓と付き合うコツを、ひとつだけ書いておきたい。
NEO VVLの面白さは、切り替わる「その一瞬」を、自分の右足で待つところにある。低い回転で漫然と流していると、いつまでも本気を見せてくれない。だが、ギアを一枚落として回転を保ち、上の領域へ針を押し込んでやると、表情が一変する。
シフトを落とす。クラッチをつなぐ。回転を高めに置く。
その一連の動作が、すべて自分の意思で完結している。電子制御が先回りして助けてくれるわけではない。だからこそ、切り替わった後半の伸びを使い切って峠をひとつ抜けたときの達成感は、204という数字では到底測れない。
これは、足りない力をどう使い切るかを考える遊びだ。
豊かなトルクに身を任せるのではなく、薄いところと厚いところを右足で読み分ける。その手間が、僕には何より贅沢に思える。便利なだけの車には、この種の手応えは宿らないのだ。
斬新すぎた箱の話──P12のデザインと評価

プリメーラ 20Vを語るとき、P12の見た目を避けては通れない。
地味だと、僕はさっきから繰り返している。けれど正確に言えば、この三代目は「地味なのに、斬新」という不思議な箱だった。
コンセプトカーがそのまま走り出してきたような、流れるシルエット。
内装はもっと攻めていた。インパネの上の方に三連のアナログメーターが並び、その下には横長の液晶モニター。操作スイッチは運転席に向けて集められていた。二十年以上前の車とは思えない、未来的な運転席だった。
この大胆さは、ちゃんと評価されている。
グッドデザイン賞の金賞を受け、ドイツのレッド・ドット賞にも輝いた。デザインの世界が、この箱を本物だと認めたのだ。それでいて、街ではまるで目立たない。賞を獲るほど斬新なのに、信号待ちでは誰も振り返らない。その矛盾が、僕にはたまらなく愛おしい。
もっとも、その斬新さは、商業的には苦戦も招いた。
奇抜だと感じた客も、少なくなかったのだろう。販売は振るわず、やがて生産は終わっていく。けれどいま振り返ると、この箱は時代を先に行きすぎていただけのように思える。古びていないのだ。前述のくるまのニュースの記事も、二十年経っても斬新だと評している。
運転席に座ると、その思想が体に伝わってくる。
上方に並んだ三連メーターは、視線を路面から大きく外させない。中央に集められたスイッチ類は、走ることに集中するためのレイアウトだ。派手な装飾ではなく、運転という行為そのものを中心に置いた設計。901運動から続く、この車の一貫した芯が、内装の隅々にまで通っている。
世間に受けることと、本物であること。
その二つは、いつも同じではない。プリメーラ 20Vは、後者だけを静かに選んだ車だった。賞賛されることより、正しくあることを選んだ。その不器用さが、二十年経ったいま、かえって眩しく見える。
中古のプリメーラ 20Vをどう選ぶか

ここから先は、実際に中古を探す人のための話だ。
「プリメーラ 20Vの中古を、できれば6MTで」。そう思っているなら、いくつか知っておいてほしい背景がある。
まず、台数が少ない。
もともと売れた数が多くない上に、「20V」という良きグレードが名乗った期間は短かった。だから状態のいい6MT個体に出会えたら、それはもう、めぐり合わせに近い。webCGのプリメーラ20V(6MT)の試乗記を読み返すたび、僕は中古の一台を探したくなる。
もうひとつ、駆動方式というより、変速機の話をしておきたい。
この20Vには6MTのほかに、ハイパーCVTも用意されていた。CVTそのものを否定する気はない。ただ、このエンジンの「上で別人になる」面白さを味わい尽くすなら、回転を自分の手で保てる6MTに、僕は軍配を上げる。
中古を見るとき、僕がいつも確かめる点を挙げておく。
- 6MTかどうか。CVT車も悪くないが、回して遊ぶなら6MTを優先したい
- 整備記録の有無。タイミング系やクラッチ、油脂類の交換履歴があれば心強い
- NEO VVLの切り替わり。試乗で高回転まで回し、上で音と伸びが変わるかを耳で確認する
- 素性。極端な改造痕や、足回りの過度ないじりがないか。純正に近い一台ほど安心だ
先日、馴染みの中古車店で、店主がこんなことを言っていた。
プリメーラの20Vを名指しで探す客は、そう多くないよ。でもね、来る人は必ず、六速とVVLの音を知ってる。みんな、いい目をして帰っていく。
その光景が、目に浮かぶようだった。
安さだけで飛びつくのは、おすすめしない。けれど、丁寧に乗られてきた素性のいい一台に出会えたなら、この箱は長く、嘘なく付き合える相棒になる。値札の数字より、前のオーナーが回し方を知っていたかどうか。それを読むことだ。
マフラーと、足し算しすぎない流儀──20Vのチューニング

最後に、チューニングとカスタムの話をしたい。
ただし、この車に関しては、僕はあまり大声で「いじれ」とは言いたくない。理由は単純で、ノーマルがすでに、回して気持ちのいいエンジンだからだ。
SR20VE、いわゆるVVLは、それ自体が人気の素材でもある。
シルビア系の車体に載せ替えるエンジンスワップの定番として、国内外のフォーラムで今も語られている。心臓だけが、車体を越えて生き続けている。それだけ素性のいいユニットだという証だ。
では、20Vのままで何をするか。
僕の答えは「足し算しすぎない」だ。高回転型のエンジンの呼吸を、ほんの少し整えてやる。吸気を素直にし、マフラーで抜けを軽く見直す。それだけで、上の伸びと音の芯が、わずかに澄む。
マフラーは、爆音を狙う道具ではない。
この車では、音量を上げるためではなく、七千回転手前で立ち上がる、あの細い金属質の伸びを、もう一段きれいに響かせるためのものだ。静けさを壊さずに、芯だけを通す。そういう選び方が、この箱には似合う。
僕は一度、爆音マフラーを入れた20Vを聞いたことがある。
正直に言えば、似合っていなかった。低い回転の無口さが消え、ただうるさいだけの箱になっていた。この車の魅力は、静と動の落差にある。下の静けさを潰してしまえば、上の伸びの感動も半分になる。引き算を間違えると、せっかくの余白まで塗りつぶしてしまうのだ。
足回りも同じだ。
もともと901運動の血を引くハンドリングを、車高調で過度に固めるより、くたびれたブッシュやダンパーを素性のいいものに換えて、本来の正確さを取り戻してやる方がいい。カスタムとは、塗りつぶすことではなく、滲ませることだと僕は思う。
この車には、最初から余白がある。
その余白を、何もかも自分の色で塗りつぶしてしまうのは、もったいない。少しだけ筆を入れて、あとはエンジンの声に任せる。プリメーラ 20Vのカスタムは、その引き算の美学を試される遊びなのだ。
よくある質問
プリメーラ 20Vのスペックと馬力は?
世代で違うので、そこを押さえてほしい。
二代目P11系のSR20VEは190馬力を7000回転で発生した。三代目P12の「20V」は、磨き直されて204馬力を7200回転で、最大トルク21.0kgmを5200回転で発生する。排気量はどちらも2.0リッターの自然吸気で、車重は1320kgほど。6MTのほかにCVTも選べた。
プリメーラ 20Vは速いのか?
叫ぶ速さではないが、確かに速い。
ターボのように低い回転から殴ってくる加速ではない。1320kgの軽い箱を、回して伸びるNEO VVLで引っ張る、操って速いタイプだ。高回転まで回し切り、切り替わりの後半を使う人にとっては、数字以上に痛快に走る。
中古のプリメーラ 20VはMTを選ぶべき?
このエンジンを楽しむなら、6MTを勧めたい。
NEO VVLの「上で別人になる」面白さは、回転を自分で保てる6MTで最も生きる。CVT車にも快適さという良さはあるが、回し切る快楽を主眼に置くなら、台数の少ない6MT個体を根気よく探す価値がある。
チューニングやマフラー交換で変わる?
変わる。ただし、足し算しすぎないのがこの車の流儀だ。
吸排気を素直に整え、マフラーで抜けを軽く見直すと、高回転の伸びと音の芯が澄む。爆音より、芯を通す方向が似合う。足回りも、固めるより素性のいい部品でリフレッシュする方が、本来のハンドリングが戻ってくる。
まとめ

プリメーラ 20Vは、カタログの表紙を飾れる車ではなかった。
大きなエアロも、人を黙らせる三桁の数字もない。賞を獲っても騒がれず、街ですれ違っても名前を呼ばれない。世間の物差しを当てれば、つい「足りなさ」のほうを数えたくなる箱だ。
それでも、僕はあの夜の背中を、まだ忘れられないでいる。
七千回転の手前まで一度も濁らなかった、あの澄んだ伸び。声を張らない秀才が、最後のひと押しでだけ聞かせてくれた本当の声。静かに速い、という贅沢を、この車は教えてくれた。
背伸びをして強さを誇る車なら、世の中にいくらでもある。
けれどプリメーラ 20Vは、その逆をいった。持てる力の大半を、ふだんは余白として懐にしまっている。その余白の深さこそが、回し切ったときに現れる伸びの正体だった。本物は、たいてい大声を出さない。この箱は、そのことを静かに証明している。
あの夜の青信号は、いまも僕の耳の奥で細く鳴っている。
置いていかれたあとの静けさと、遠ざかっていく澄んだ伸び音。──さあ、君は、どの回転で、何を聞き取る。
執筆:橘 譲二(たちばな・じょうじ)



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